Vol.2 入社当時のエピソード
インタビュー内容
入社当時のエピソードと 父親について
聞き手
ご自身はすぐに大学を卒業されて戻ったわけでは無くて、一度修行ではないですが、就職されてらっしゃる。
山下
一応電子工学を出たものですから、当時の医理学研究所と言う会社に入りましてね。そこは超音波診断装置を開発していたというところで、それと核医学と言って放射線の色んな診断機器を開発をしていた企業で。のちにアロカ株式会社というところになるんですけど。そこに技術部の方にお世話になって。まあ1年ちょっとですけど。お世話になって色々なことを勉強させていただきましたけど。
聞き手
1年ちょっとで実家の方に戻らないといけない状況になって、戻って最初にされたのが、新しく始めるという新規事業。
山下
北九州に本社があって医療ガスの配管の設計と施工をやると、そのフランチャイズを募集してうちがまっさきに名乗りを上げて。というところだったんですけどね。
聞き手
創業家のゆくゆく経営者の候補として戻られていると思いますし、新しい事業というのもあってすごくプレッシャーというかなんか感じられたんじゃないかと想像したんですが。
山下
プレッシャーも多少はあったとおもいますけど、一生懸命やるしかなかったので、研修にも一カ月くらい行ったりしましたけど。
聞き手
その時の経営者お父様が。普段家族として接していたお父様と会社に入社をされましたら、社長として接るお父様というのは、なにか違いはありましたか。
山下
子供の頃と言うか、中学高校くらいの時は、もうなにか会社の話じゃないけど家の中で、ちらちらとするんですよね、それは聞いていて。社長は社長でいたんで、特に違和感はないんで。祖父からもいわれていたんですけど。家族だけれど、家族として接するなと。社長として会長として接するようにと。言われましたね。1回ね。
聞き手
お父様は経営者として、どういうタイプの経営者だったですか。
山下
やはり父も小さい頃はおとなしい子だったらしいんですけど。日大でしたんで、東京に行って、その辺の刺激もうけたんじゃないですかね。精神的な色々と本を読んだりして、精神的な経営を取り込もうとというような意欲はとても持っていました。近代的な経営をやろうという部分が強くでていたとおもいます。
聞き手
わりと社員の方に対しても上からトップダウンで上から行かれるよりは、意見を吸い上げて行かれるようなタイプ。
山下
そうですね。もちろんトップダウンもあるんですけど。うちの会社の基本方針は、すべての従業員に対して一生をかけて悔いの無い会社であることというのがあるんですね。昭和47年に社長になる時にそれを作って。社員さんの方に出しているんですけど。当時たぶん社員一番上に来る方針というのは少なかったんだろうと思うんです。
聞き手
当時は本当に珍しいですよね。
山下
たぶん昔は、祖父の代は住み込みでですね。田舎から来た人を住み込ませて、いわゆる丁稚奉公じゃないけど。そういう日本のですね、昔からの伝統的なやり方だったと思うんですけど、それも変えていこうとしたとおもうんですけど。近代的にしたいと。私の推測ですけど、そういう丁稚奉公されり家事手伝いをされたりしている人たち、昔は格差社会なので、食べる物も昔は違っていたと聞きましたけど。そういう悲哀と言うか。その人たちが悲哀を持って働いていたかはわかりませんけど。それを感じていたんだろと思うんですよね。父は。そのことを感じていて、自分が社長になって、従業員と社員の人達と協調し合いながら会社を盛り立てていこうというとことが根っこにあったんじゃないかとおもうんですけどね。
経営者プロフィール
| 氏名 | 山下 尚登 |
|---|---|
| 役職 | 代表取締役社長 |
会社概要
| 社名 | 山下医科器械株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 福岡県福岡市中央区渡辺通3丁目6番15号 NOF天神南ビル6階 |
| 設立 | 1926 |
| 業種分類 | 卸売業 |
| 代表者名 | 山下 尚登 |
| 従業員数 | 518 名 |
| WEBサイト | http://www.yamashitaika.co.jp/index.html |
| 事業概要 | 医療機器の販売、レンタル、リース、理化学機器の販売、医療事務コンピューターの販売、医療設備器械の販売 |